シンリモ・ココロン

カウンセラー徒弟・かざはな による綴り書き

§3.怒りをガマンしない方法①

突然ですが、頭にくること、ありますよね。。。

 

・頭にくる

・腹が立つ

・ムカつく      

・逆上する

・キレる・・・etc.

 

これらはみんな「怒り」という感情を覚えた時の言い回しですね。ちなみに類語を引くとものすごい数が出てきます。それだけ身近で、ニュアンスの細かいものだということでしょう。

 

でもみなさん、「自分の怒りを、うまく表現できてますか?」って聞かれたら、何と答えますか?

意外と「YES」と自信をもっていえる方は少ないんじゃないかな、と思います。

なぜなら怒りは下手に出すと「攻撃」になって、他人や自分を傷つけ、あっさりと人間関係を壊したりもする「危険」なものだからですね。いわば、ちっちゃいとはいえ刃のついたカッターナイフを振り回す行為にも似た部分があって、放置すれば面倒なことにもなりうるわけです。

だから、私たちは小さいころから「できるだけそういう危ないものはしまっておけ」という教育を受けています。

「お友達とは仲良くしなさい」→「喧嘩をしても(=怒りを覚えても)大人が『ごめんなさいは?』と言ったタイミングで、ごめんなさいを言いなさい」→「ごめんなさいと言えなければ(=怒りをひっこめなければ)、それは悪い子」といったように、そのうちだんだん「危ない」という理由に価値観までもくっついて=「悪いこと」になっていることがしばしばです。しかも、怒りは持ち主の制御を越えることがあり、そういう意味でも「怖い」のが拍車をかけているかもしれません。

ですから、一般的に頻繁に怒りを見せる人は煙たがられてしまいます。誰だって傷つけられたくないので、周囲にはめんどくさく映ります。一方、怒りを見せない人は「いい人」と褒められ、ますます価値は傾きます。

 

でも、本当に怒りは「危険」で=「悪い」ものなのでしょうか。

 

そうではありません。

怒りは「感情」だからです。本来、感情に善悪はありません。

控えなければならないとしたら、それは「攻撃」のほうです。

まず、「怒り=感情」と「攻撃=行為」は全く別のものであることを理解する必要があります。自分や他人に傷をつけるのは、怒りではなく攻撃という「行為」なのです。

 

感情は個体が置かれている環境からの快と不快を受け取るため反応で、いわばその命が生き延びるための指標のようなものを示してくれるだけにすぎません。快と不快の両方が、常に生存を高める環境に導くためのバロメーターです。

その感情に善悪の価値をつけているのは、感情よりも表層にあるの意識や思考の部分です。社会という仕組みの中で、無理やり枠を当てはめているだけにすぎないのです。

一方、行為は意思によるものです。そこには意識による選択が行われ、そのため価値を伴います。

 

多くの人が、それを一緒くたにする間違いを犯しているのです。

 

というわけで今日のまとめ

「怒りを感じることは、悪くない!」でした。

 

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<ちょこっと次回予告>

 感情には「一次感情」と「二次感情」というものがあり、

一次のほうは、環境からの反応としてほぼ自動的な反応としてどんどん出てくるもの。一方、二次のほうは一次を踏まえて沸き起こってくるものです。

実は怒りは二次感情。

だから、怒りにはその「素材」があるんですね。

一見、取り扱いの難しいものも、素材が分かればちょっと手の出しようがあるような気がしませんか?

 というわけで次回「怒りは何でできているのか」に続きます~。

乞うご期待!